アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)
フランス語発音”ミュシャ”、チェコ語発音”ムハ”。
アール・ヌーヴォーを代表する芸術家の一人です。
一夜にして成功をおさめる
オーストリア・ハンガリー帝国領モラヴィア(現チェコ)に生まれ、ウィーンやミュンヘンを経て、27歳でパリに渡り絵を学びました。なかなか才能を発揮する機会に恵まれなかったミュシャは、34歳の時に、女優サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを手がけることになり、一夜にして成功をおさめます。以降、優美で装飾的な作風は多くの人を魅了し、活躍しました。
資金集めにアメリカへ
パリ時代には、裕福なお客を持ち、明るい暮らしをしていたミュシャですが、スラブ民族のもつ暗い歴史を忘れることなく、心に感じていたといいます。
そして、1905年、ミュシャはチェコの歴史作家の小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史を絵で表現することを決意。スラブ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱き、その資金のため、アメリカに渡り、かなり仕事をしたという。
故郷へ・・・
ミュシャは、50歳で故郷に戻ります。
チェコのプラハに戻ると、ミュシャは国のために芸術を捧げるようになります。まずプラハ市長の公館の装飾壁画を手がけました。ほかにさまざまな町のランドマークの制作を行います。
晩年の約16年を捧げ、故郷チェコや自身のルーツであるスラヴ民族のアイデンティティをテーマに、『スラヴ叙事詩』(1912-1926年)を制作する。
→『ミュシャ展』(2017 @国立新美術館)
1930年後半にファシズムが擡頭するとミュシャの作品やスラヴ民族思想は反動的に非難されました。1939年にドイツ軍がチェコスロヴァキアに進駐すると、ミュシャはゲシュタポに逮捕されます。取り調べを受けている間、ミュシャは肺炎にかかります。最終的に解放されたものの年老いたミュシャは、1939年7月14日にプラハで肺感染症で死去しました。
ヴィシェフラド墓地に埋葬されています。